禅問答について調べていたら、面白い表現を見つけました。
「無門関」 における和尚がなぜこんな問いをするのか?ということのようなのですが...

『生半可な論理ではなく、
 言葉尻を捕らえた言葉遊びでもなく、
 やけくそになった支離滅裂な回答でもなく、
 行住坐臥(ギョウジュウザガ)、
 つねにこの公案を抱いて、
 噛み砕いて、考えに考え抜いた結果出てきた
 自分だけの回答』

私は、これを読んで、 「知恵」 のことだ!と思いました。
(これ自体は知恵について説明したものではないのですがね)

「頭を使え!」、「知恵を絞れ!」 って具体的にはどういうこと?
というのを今までうまく説明できずにいたのです。
これは 「知恵」 という言葉の重さを伝えるのにとてもよい表現だなと思いました。

なんかよくわからんけど、ヘビーなものなんだなという事は伝わりそうです。

「自分だけの回答」 というくだりも良いですね。

「知恵」 は、そのの域にたどり着いた瞬間は、「自分だけの回答」 だと思います。
それがベストプラクティスやノウハウという形で体系化されていくにつれ、常識になっていくのでしょう。
しかし、オリジナルな知恵が発揮するパワーを享受するためには、やはり 「自分だけの回答」 の域にまで達しないと無理でしょう。
つまり、自分が体現できるまで租借していなければ、それは単なる 「知識」 であり「知恵」 にはなっていない、ということです。
だからが故に、「知恵」 とは 「自分だけの回答」 という表現はしっくりくるなぁ、と思いました。

これ自体が禅問答みたいですがね...

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